静かな暗闇の中にただ一人。自分が目を開けているのか閉じているのかも分からないまま、おれは冷たい壁に寄りかかり体の力を抜いた。

重力に負けて、ずるずると体が沈んでいく。もう指一本動かしたくない気分だった。それは飢えと渇きで肉体が疲弊しきっているせいでもあり、五日振りの愛しい声に安堵した結果でもあった。

五日間、暗いくらい地下道をずっと二人で歩き続けてきた。二人で? 違う、三人だ。三人いた。だけど二人になった。今更なにをどう後悔しても変わらないその事実は、いつまでも暗く、重い。

病は気から、とは日本の諺だけれど、本当に肉体は精神のダメージを如実に反映する。確かギーゼラも、治癒の魔術は患者の気力を引き出すことが基本だとおれに説明してくれた。……もう、ずいぶんと昔のことのように感じるけれど。そうだとすれば、こんなふうに失った仲間について考え込む時間は、精神だけではなく体にとっても毒でしかない。喉の痛みも頭痛も、酷くなるばかりだ。分かってはいても、暗闇の中で孤独に待つこんな時間に脳裏に浮かぶのは、死に別れる直前の、あの優しい笑顔ばかりで。

 

……どれぐらいの間、そうして壁に身を預けて待っていたのだろうか。

約束どおりコンラッドが戻ってきた時、おれは心身ともに疲れ果てていたためか、眠り込む一歩手前だった。だから声をかけられるまで、近付いてきた足音にも気付かなかった。

 

「戻ってきました」

「あ……」

 

息は声にならなかった。極度の渇きのために声帯が振動せず、代わりに喉が裂けるような痛みが走る。

それもそのはず、この暗闇に閉じ込められてからもう五日、何も飲んでいなかったのだ。

水のために、水のためだけに、みっともなくサラレギーに媚びて縋りついたほど。

 

「……っ」

 

目を閉じて喉を押さえると、コンラッドはすぐに気付いてくれた。

 

「飲んで」

 

ちゃぷん、と水の音がする。携帯用の容器にたっぷり入っているのだろう。口に入れた途端に噎せて、半分以上を吐きだしてしまう。卑しく一息に呷ったために、上手く飲み下せなかったのだ。

 

「しーっ、じっとして」

 

コンラッドは首の後ろに左腕を差し入れて支えると、水滴を指に載せ、まずおれの唇を湿らせた。ちゃぷん、と近くて遠い位置からまた水音がして、それから唇に柔らかな温度が当たった。近い気配に、それがコンラッドの唇だと分かる。

身を任せていると、口内に水が流れ込んでくる。コンラッドの指がおれの顎をゆっくりと持ち上げて角度を変えると、あまり冷たくない水が喉に流れ込んできた。コンラッドの口腔で温まった、人間味のある生ぬるさだ。

何度もそれを繰り返して、コンラッドは僅かずつおれに水を与えてくれた。

喉の痛みが徐々に収まり、持続していた手足の痺れが緩和され、思考を奪う終わりのない頭痛も引き始める。

 

飲ませ方は合理的だ。体温に近い温度の水は、体にとって負担が少なく吸収しやすい。それに、他人に水を飲ませるにあたって、不透明な容器では傾きの調整が難しい。

だから、こうして飲ませてくれている。

何度目かの唇が離れる際、コンラッドの舌が、おれの舌や歯茎を丁寧になぞっていった。それは口付けを深くするためではなく、おれの身体に水分が足りているかどうかを確認するためだ。

極めて合理的な、水分補給のための行為。

だけれどこんな濃厚な触れ合いは久し振りで。本当に久し振りで。

しあわせ、の四文字が目の前にちらついた。

 

 

『走って、そのまま。止まらないで』

 

 

不意に、あのひとと死に別れる直前の台詞が、耳の奥で聞こえた。

そしておれは彼と自分の現実を認識して、愕然とした。

 

彼を冷たい岩に抱かせて、おれは愛しい腕に抱かれている。

 

酷い話だ。どうしよう、酷い話だ。

過ぎる幸せは一転して、重すぎる罪悪感に変わる。

こころが現実を拒否するのに、身体は貪欲にコンラッドとの接触を、そして水を受け入れている。

仲間を殺して生き延びた心臓がおれの意思とは無関係に鼓動を刻むように、肉体はいつだって言うことをきかない。

 

そのまま走ってと言われたのに、止まらないでと言われたのに。これじゃ重すぎて、進めないじゃないか。

水なんか要らない。このまま喉も舌も罅割れてしまえばいい、それでもおれが生き延びた事実は変わらない。

去りかけていた頭痛が戻ってくる。体中が痛い。

もう嫌だ。どうしておれは、こんなに幸せなんだろう? 彼を殺したくせに!

 

 

 

癒しの魔術、なんていうけれど、治癒になによりも重要なのは治ろうという意志と気力よ。

だから瀕死の怪我人相手でも、呑気に子守唄を唄ったこともあるわ。

それからね、これは多用すべきではないけれど、

患者の精神が酷く病んでいて肉体が癒しの魔術に反応せずに、いのちが危ない時には――――

 

 

 

 

 

どこかで誰かが、ギーゼラの話の続きを教えてくれる。今、おれはそうすれば良いのだと教えてくれる。

 

おあつらえ向きに、グウェンダルが子犬にミルクを飲ませていた光景が思い起こされた。

いや、子猫だったっけ。あの時は慌てて扉を閉めたから、正確に確認する暇がなかったんだ。

おれは思わず忍び笑った。あの時おれの姿に気付いた瞬間のグウェンダルの表情を思い出したのと、それから、これからおれが実行しようとしていることの情けなさとで。

 

「何です」

 

おれが笑うのに気付いたコンラッドが、不思議そうに問う。

おれの情けない計画には、コンラッドにも付き合ってもらわなくちゃいけない。おれは、努めて自然にこう言った。

 

「そのやり方は、お兄ちゃん直伝なの?」

「……直伝というと……」

「前にグウェンダルが、同じようにして子犬にミルクを飲ませてた」

 

言い訳ならある。なにしろ極度の脱水で手足は痺れ、体中の感覚が衰えていた。そのうえ今は視力もなくて……それはコンラッドにはまだ告げていないけれど、仮に見えていたとしても、周囲は充分に暗い。自分がどう水を飲まされたのか、正確に把握できなくても仕方がない。

少なくともコンラッドは、その方向で得心してくれたようだった。

 

「……かもしれません」

 

コンラッドの返答を聞いて、おれは安心して目を閉じる。

 

 

 

これは多用すべきではないけれど、

患者の精神が酷く病んでいて肉体が癒しの魔術に反応せずに、いのちが危ない時には、

暗示をかけて、記憶を書き換えることもあるのよ。

いのちが危ない時、こころが壊れそうな時。あくまで一時的に、ね。

 

 

 

やり方は簡単。

いつかグウェンダルが子犬にミルクを飲ませていた姿を脳裏に思い描き、それにコンラッドとおれの姿を重ね合わせるだけだ。

掏り替わった映像の違和感のなさに、またほんの少しだけ、おれは笑った。

 

交わし合ったセリフは、コンラッドと共有する記憶だから変えられない。彼から水を受け取った事実も。

だけど詳細の認識は、おれ一人が勘違いすることはあり得る。後々不都合のないように、コンラッドにもおれが勘違いしている事実は伝えた。後はおれが、この勘違いを本物の記憶として認識してしまえば終わりだ。

唇に当たった柔らかい感触は、水を入れる容器を覆う皮だ。

飲まされた水が生ぬるいのは、砂漠の日差しの下を運ばれてきたからだ。……

 

記憶が掏り替わる。愛しい相手との濃厚で優しく甘すぎる幸せの記憶は去り、子供のように水を飲まされた淡い記憶に変化する。

まったく、コンラッドにかかるとおれも、いつまでも子供扱いだ。ごく自然にそんな感想がこぼれるほどに。

言ってみれば、キスの記憶がなくなっただけだ。大袈裟な話じゃない。

でもおれにとって、コンラッドとのそれは幸せすぎた。

 

 

 

『あなたは走るんです、陛下』

 

 

 

おれは歩みを止めはしない。

だから今だけ、そのために自分を騙すことを許してほしい。

記憶の箱を真っ暗な水の底へ沈めることを、許してほしい。

 

封じた記憶はいつか必ず解放して、正面から受け止めるから。