彼女は既に死を迎えた。

その魂は渋谷有利へと引き継がれ、彼女の記憶は魂の溝へと封印された。

本来ならば、その記憶も意識も二度と表に出ることはない。

 

けれどジュリアは、確かに少年の魂に蘇る。

 

 

 

 

 

 

 

 

きっかけは、

愛し愛された男に、魂の扉を抉じ開けられたことだった。

 

――― あのひとが、傍にいる。

男が望んだのは蓄積言語記憶だけであったが、同時にジュリアの意識も吸い寄せられたのは必然だろう。

これが、ジュリアに関する魂の封印が薄れる最初の因子だった。

しかもその後も、渋谷有利はジュリアと縁深いものに接する機会が多かった。

傍に控える茶髪の護衛。妖艶な前魔王。毒のある小柄な研究者。

そして胸元に揺れる、青い魔石。

取り巻く環境が魂の中の彼女を揺さ振り、記憶の箍を徐々に緩ませた。

 

だからジュリアの意識は幾度も、婚約者によって一度開かれた扉から浮上した。

その引き金となるのは、魂への刺激だ。

そう、渋谷有利が、魂の資質を必要とする魔力を揮う時。彼女の意識は僅かながら表層へといざなわれ、魔に従う粒子の統制に力を貸した。

 

 

 

今回、聖砂国で彼女の意識が浮上したのは、別の特殊な引き金に因った。

渋谷有利が、魂に響くほどの衝撃を受けたのだ。少年が生まれてから今までに経験した苦痛のどれよりも、その出来事は少年の心を痛めつけた。

ただでさえ最近の少年の精神は消耗が激しく、一歩間違えばその疲労は極地を超えてしまいそうだった。

浮上したジュリアは少年が壊れてしまわぬよう、少年を包み続けた。

 

けれどそれも、もう終わり。

少年の心が回復したのを感じ取り、ジュリアは静かに身を引いた。

心強い仲間も傍にいる。もう、わたしの出る幕じゃない。

扉は閉じられ、またジュリアは魂の底に沈むところであった。

 

 

しかしジュリアは失念していた。

ここには有利を惑わす男が二人もいることを。

 

 

「おれ、見えてる。でも一体どうして……」

「安心したんだろ。もう危険は去ったと頭の…精神のどっかで納得したんだろうよ。もう自分の出る幕じゃないってな」

 

何を言い出すのよこの男は!

グランツの台詞に、ジュリア(の意識)は憤怒した。

常ならばこのような些細な会話が魂の内の彼女にまで響くことはないのだが、今回は例外的に長時間表層へと出ていたため、完全に魂の奥へと封印されるには時間が足りず、結果ジュリアにもこの会話が届いたのだった。

 

アーダルベルトの発言は確かに当たっている。

そう、少年が視力を失っていたのは、ジュリアの存在に起因する。

だがそれをわざわざ口に出して少年に言うなんて、なんてことをしてくれるのだ。

前世の記憶が魂の奥底に厳重に封印されることも、その理由も、魔族(特に貴族)ならば常識として知っているはずなのに。

 

そもそも有利の精神が弱っていた原因の一つは、魂の前世についてを思い煩っていたことにある。

 

――― 前世が知り合いの女性でしたなんて言われても、どう反応していいか見当も付かない。

――― 知らない顔をして生きていくのが一番だ。

 

――― ………おれの魂は、誰のもんなの?

 

やり場のない少年の心痛は、自らの存在意義をも危ぶませる。

 

そもそも遡れば、具体的に少年が前世の存在を知ったのも、シマロンの舞踏会でのこのアーダルベルトの行動が原因だった。

いや、あの時はアーダルベルトも取り乱していたのだからと大目に見てもいい。それに、有利の心が傷付くかどうかなんて気に掛けてもいなかっただろう。

けれど今回はアーダルベルトにも余裕があるはずだし、どちらかと言えば有利に好意を持っているはずだ。

なのにどうしてまた、前世についてを有利本人に言ってしまうのだろう!

 

そういえば彼は思ったことをすぐに口に出してしまう性格だったわ、とジュリアは思い出す。

ついでに言えば、他者の心の機微にもちょっと疎かった。

 

「自分って……」

 

有利が、アーダルベルトに聞き返そうとする。

きっとこのまま聞き返したら、他者の心の機微にちょっと疎いアーダルベルトは、意味深に口の端を上げて微笑するのだろう。

そして後々、それがジュリアを意識した台詞なのだと気付いた有利は、また落ち込むに違いない。いや、後々ならまだしも、今この場で気付いてしまったら、せっかく回復しかけている心身が台無しだ。

 

どうにかしなくては。

ジュリア(の意識)は辺りを見回し、この状況を打破する道具を探した。見回すと言っても見えはしないのだが、視界にぼんやりと、嬉しさのあまり言葉を発せない金髪の少年を見とめる。

そうだ、彼よ。

彼女は魔力を巧みに使ってその少年を小突く。はっと言葉を取り戻した少年は、ジュリアの思惑通り早速、有利とアーダルベルトとの会話に割り込んだ。

 

「食事したから安心って、つまり栄養が足りなかったのか? ユーリ……お前というやつは、どこまで意地汚いんだ」

 

ジュリアの予想通り、少年は、ちょっとばかりズレた発言でアーダルベルトの台詞の核心を逸らしてしまった。

よし、これでいいわ。ジュリアは安心して、また魂の底で眠りに付こうとした。

 

 

しかし、状況はジュリアの油断を許さない。

危険因子は、この場に一人ではないのだ。

 

「馬に乗るのがウマくなった、って? ……うん、目が見えるってだけで五割増しくらい上達した気がする」

「ユーリ、そのことなんだが」

「なに?」

「あなたの魂の……」

 

この男もか!

ジュリアはくらくらと眩暈を感じた。

 

『以前の魂の持ち主の記録は、本来なら、決して開かない扉の奥深くに閉じ込めておくべきものです』

『周囲にも本人にも悟られないように、魂の奥底に、厳重に鍵を掛けて封印するんだ』

 

そこまで言い切り、記憶の箍が緩みかけている有利の心配をしていたコンラッドなのに、何故、無神経にこんな話題を持ち出すのだろう。

黙っていれば良いものを、せっかく元気を取り戻したばかりの有利に今すぐに話さなければいけない内容でもあるまいに。

 

そもそもコンラッドの態度は中途半端だ。

有利の魂の前世を具体的に教えてしまったのはアーダルベルトであるが、そのことで有利を不安な気持ちにさせている主な原因を作っているのは、魂を意識した行動を隠せないコンラッドの方だろう。

『魂の前世は、周囲にも本人にも悟られないように封印される』と発言しているくせに、実際のところ、コンラッドに魔石を返そうとした有利に意味深に魔石を握らせるなど、有利の魂の前世を悟らせているのはコンラッドだったりする。

“コンラッドがおれに優しいのは、おれの魂の以前の持ち主が大切だから”……特に有利の心情には人一倍聡いコンラッドであるのに、そんな誤解を与えるようなことをしてしまうのは、ジュリアを大切に思う気持ちも捨てられないからか。

 

ああもう、友人がよく「軟弱な男ども」なんて言っていたけど、今ならその気持ちもなんとなく分かるわ。

この少年に優しくしたいくせに、優しくすることで余計に不安にさせてるんじゃ本末転倒じゃない!

 

とにかくもコンラッドがユーリに魂について語るのを阻止すべく、ジュリアはまた辺りを見回した。しかし今度は、有利が単独で馬に乗っていることもあり、乱入してくれそうな良いものが見つからない。

……仕方ない、こうなったら。

 

「追っ手が来たぜ!」

 

アーダルベルトの警告で、会話は見事に中断された。

 

「こんなに早く!?」

「騎馬民族だからな。馬を駆ればそれなりに速い」

 

状況を素早く確認しながら、コンラッドは小さく呟いた。

 

「いくら騎馬民族とはいえ、予想より速いな。こちらの位置が確認できない距離まで離れられたのに……迷わずこちらに駆けてくるなんて」

 

あの騎馬民族相手なら、“救世主”が一肌脱いでくれれば大丈夫よね。

ジュリアは今度こそ安心して、有利の魂の奥深くへと意識を落としていった。