「お、おれはッ、爪切り持ってきてって頼んだだけなんだ!」

 

酷く慌てた様子でコンラッドの私室に駆け込んできたユーリの第一声が、それだった。

 

「地球だと毎日ちゃんと切り揃えてるんだけど、こっちに来てから伸ばしっ放しでさ、だからたまたま部屋に来てた女の子に頼んだの、爪切り持ってきてくれって! そしたら女の子が用意してきてくれたのが、なんか綺麗な紙でぇッ」

 

ああ、とコンラッドは話の一部を理解した。

庶民の道具としての爪切り鋏は、眞魔国にも存在する。しかし貴族の爪は、爪切り鋏ではなく紙やすりで手入れするのが基本であり、偉大な魔王ともなれば尚更、その爪をやすりで整えるのは侍女の仕事の一つである。

ユーリから爪切りの用意を任じられた侍女は、当然ながら高級な紙やすりを用意したのだろう。そして、そんな経験のないユーリは驚いてしまったと。それにしてもコンラッドの私室に逃げ込んでくるほどとは、いささか驚きすぎではある。

 

「おれが頼んだのは爪切りだったの、なのに、女の子が持ってきてくれたのが綺麗な紙でっ、」

「不思議に思ったんですね」

「そう、不思議に思ったの! で、それはなんですかーって聞いたの。そしたら爪を手入れする道具だって言って、おれを椅子に座らせて、女の子がおれの前に跪いたのッ」

「それで、驚いてしまったんですね」

「そう、驚いたの! それでしかも、その女の子がおれの手をそっと握ってくれて、それだけでもドキドキしたのに、ゆ、指先に…ふぅって息吹きかけられて、だ、だからおれ、おれ……ッ」

「それは、嫉妬しますね」

「そう、嫉妬したの! それでおれ、慌てて逃げ……、へ? しっと?」

 

コンラッドは、にっこりと爽やかに笑った。侍女が息を吹きかけたのは、指先に乗っていた屑を払うためであって、特別な意味はない。

とりあえず、どういう経緯でユーリが逃げ込んできたのかは分かった。侍女も、まさかこんな理由で王が逃走したとは思ってもいないだろうが。

 

「とりあえず、そこにでも座って少し休憩してください。息切れしてますよ」

 

コンラッドは保冷庫から茶を取り出してグラスに注ぐ。それを受け取って、ユーリは寝台に腰掛けた。そこはこの部屋でのユーリの定位置となっている。

 

「ちょっと爪を切りたかっただけなのに…はあ、心臓に悪い……」

「少しは落ち着かれました?」

「うん、まあ…とりあえずドキドキは収まった」

「それは良かった」

 

あなたをドキドキさせるのは俺だけで充分ですからね、とは思っても言わない。

代わりに、提案をする。

 

「爪なら、俺が処理してあげますよ」

「え、コンラッドが?」

「侍女に任せるよりも、精神衛生上安心でしょう」

「確かにそうだけど…、爪切りはねーの? 貸してくれれば自分でするよ」

 

貴族が爪切り鋏を使わない理由は、爪の形が悪くなるからだ。そんなことを気にしないコンラッドは爪切り鋏を愛用しているが、ユーリの爪にそんな無粋な道具を使うつもりは毛頭ない。

 

「爪切り鋏も、あるにはありますけどね。誰もあなたには貸してくれないと思いますよ、そんなもので切るのはもったいないから」

「もったいないって? 爪切りなんて減るもんじゃねーのに…あ、あれか、ちょっとでも切れ味悪くなるのは嫌ってこと? なんだよ神経質だな、そう簡単には痛まないのに。おれの家のなんか、家族中で使ってるけど十年以上も現役だよ」

 

正確に説明してあげようかとも思ったが、それももったいない気がして、コンラッドは黙っておくことにした。

そうですね等と曖昧な言葉を返しながらコンラッドが引き出しから取り出したのは、気品高い紙やすり。数十年も前のものだが、やすりに消費期限はないだろう。

 

「さ、手を貸して。まずは大事な右手から」

「え…、その紙でどうすんの?」

「これは紙じゃなくて、紙やすりなんです」

 

寝台に腰掛けるユーリの前に跪き、その手を取る。確認すると、爪は切る必要もなさそうなほどしか伸びていなかった。野球少年としては、常に深爪ギリギリまで切り揃えておくのが身だしなみの一貫なのだろう。爪の状態は、汚いというほどではなく健康的だが、決して綺麗ではない。

コンラッドは改めて、爪切りを貸さなくて良かったと思った。大切な方の爪が、本人の意思とはいえぞんざいに扱われているのは可哀想だ。せめて自分の目の届くところでは、丁寧に手入れして差し上げたい。

手をじっくりと観察されるのが気恥ずかしいのか、ユーリが所在なさげに身動ぎ始めた。「動かないでくださいね」と一応注意を促してから、コンラッドは扱いやすい高さまでその手を持ち上げ、やすりを当てる。

が、削る前にふと思い立って、その指に軽く息を吹きかけてみた。予想通りユーリの反応は皆無、ただコンラッドの動向を見守るのみだ。

侍女とは違ってまったく意識されていないことを、喜ぶべきか憂えるべきか。コンラッドは口元だけで笑い、注意深くやすりを動かし始めた。まずは親指の爪から、やすりを平行にして小刻みに削っていく。

最初は嫌がるように手を引き気味だったユーリだが、コンラッドの手慣れた様子に感動したのか、または初めての行為が物珍しかったのか、コンラッドの動作を興味深げに眺め始めた。

 

「綺麗、上手い、すごいっ」

 

何かの宣伝文句のようだ。

 

「やすりなんかで、意外と削れるもんなんだ。形も綺麗だし! おれが自分で切った後っていつもギザギザで、爪が服とかに引っかかっちゃって鬱陶しいんだよね。コンラッドにしてもらったとこは本当綺麗、ほら、指で触ってもつるつる!」

「光栄です」

「ていうか慣れてるよなコンラッド、自分の爪も日頃からこうやって削ってんの?」

「いえ、俺自身のは爪切りで。慣れているのは、ヴォルフの爪を毎日整えていたからかな。もうずっと以前のことですけどね」

 

弟の爪を磨くのは、コンラッドの日課のようなものだった。だから、ハーフであるという理由で次兄を避けるようになってからしばらくの間、ヴォルフラムの指先はそれはもう酷いありさまだった。それまでコンラッドに手入れされていたという事情を他の者に知られたくなかったからだろう、ヴォルフラムは侍女にも頼らず頑なに一人で爪を整えようとしたらしい。結果、慣れないために爪の長さも形もボロボロで、指までやすりで擦ってしまって傷だらけ、傍目から見ても大層痛ましかった。コンラッドとしては、やすりをかけてやりたいがために、夜に弟の寝室へこっそり忍び込もうかと真剣に悩んだほどだ。

もともとヴォルフラムも不器用ではないから、そんな心配も数ヵ月で収まったのだけれど。

 

「……なあコンラッド、もっと適当でもいいよ?」

 

言われて顔を上げると、コンラッドに左手を預けている主は、少し眉を下げてうずうずしていた。自分の指が宝物のように扱われることに、むず痒くなってきたようだ。

 

「あと左手の指三本で終わりですから、もう少しの間じっとしていて」

「じっとするけどさ…、そんな丁寧にしなくてもいいよ、どうせ野球やってたら汚くなっちゃうし」

「そう言わずに。せっかくだから、綺麗にさせてください」

「気持ちは嬉しいんだけどー、女の子の指ならともかく、野郎のなんか手入れしても意味ないというか、意味ないことをさせるのは申し訳ないというか」

 

女の子の指、という単語で、そもそもユーリがこの部屋へ逃げ込んできた理由を思い出した。コンラッドにとって、微笑ましくはあるが喜ばしくはない事情である。

複雑な心情にちっとも気付いてくれない主に、コンラッドは少しの意趣返しを試みた。

 

「綺麗にする意味なら、ありますよ」

「え……どんな?」

 

コンラッドはやすりを動かす手を止め、にこりとユーリを見上げて言った。

 

「この爪を綺麗にすればするほど、俺の背中に付けられる傷は軽くなるでしょう?」

 

少しの間の後、微笑むコンラッドの目の前でユーリは口をパクパクさせた。顔は下からゆっくりと朱に染まっていく。

本当は、ユーリに付けられる傷ならどれほど深くても構わないのだけれど。

 

「そんなわけで。ゆっくり、整えさせてくださいね」

 

何も言えないユーリを一通り眺めてから、コンラッドは上機嫌で手元に視線を戻した。再びやすりをかけ始めて、左の中指を綺麗に整え終える。

それからふと思い立ち、指に残った削り屑を払うという名目でふっと息を吹きかけてみた。

 

「ん……っ」

 

先ほどとは違いコンラッドを意識しているためか、ユーリは小さく声をあげてピクリと震えた。

上々の反応だ。

あまりにも上々すぎるので、コンラッドは、爪を全て磨き終えたらすぐにもその爪で背中に痕を刻んでもらおうと決めた。