ユーリがにらめっこをしている。

対戦相手は書面だ。本日の仕事内容についての、グウェンダルからの指示書。

これを解読しなければ今日の勤めを始められない。

 

「…コンラッド、これ読めない……」

 

たっぷりと唸った後、申し訳なさそうにユーリは俺を見上げた。

どれ、と横から覗き込むと、幼子向けの絵本のように平易な言葉が並んでいる。高等魔族文字も一切不使用、だが確かにグウェンの筆跡だ。新王が早くこの国の言語に馴染むよう、グウェンなりに気を遣っているようだ。

ただ、あまり文学を得意としない王には、多少時期が早すぎたかもしれない。

 

「どこが分からない?」

 

単語や文法を解説しながら、ゆっくりと読み進めた。習い始めて間もない言語では、絵本の1ページにもずいぶんと労力を要してしまう。

 

「やっぱ、おれってへなちょこだな…全然わかんない」

 

ようやくのことで全文を読み終えると、ユーリは憂い顔で小さく溜め息を吐いた。

 

「まだ馴染んでいないどころか、習い始めたばかりなんだから当然です。勉強が苦手だという割には、努力しておられる」

「そりゃ…学校で習う英語よりはずっと頑張ってるつもりなんだけど。でも、上達した感じがまるでなくて」

 

しゅんと下を向いてまった主君を元気付けるべく、俺は一つの提案をした。

 

「じゃ、テストでもしてみますか」

 

テストぉ!? と、ユーリは嫌がるように上体を引いた。椅子に座っていなければ、後ずさっていたことだろう。

 

「無理、もうテストって言葉だけで拒否反応出ちゃう」

「そんな大層なものじゃないですよ。あなたに自信を持ってもらうためのものなんだから大丈夫」

 

ユーリは上達していないと言うが、実際に進歩がないわけではない。ただ、学んだ知識を試される場が実践にしかなく、単語力・国語力・文法力などの複合を求められるから、習い始めたばかりの身には厳しすぎるというだけのことだ。

 

「そうですね…単語テストでもしてみましょうか。今から俺の書く単語を読んでみてください」

 

と、筆記具を手に取ったは良いものの、いざ何を書けば良いものかと迷った。ユーリが最近習っていた単語。身近な単語。何があっただろう。万が一にも、1問目から「ワカリマセン」などと言わせるわけにはいかない。

…結局、真っ先に思いついた基本中の基本単語を、紙の真ん中に書いた。

 

  “ ユーリ ”

 

案の定、ユーリは拍子抜けしたように笑った。

 

「も〜コンラッドってば、なにかっていうとスグおれの名前出すんだからあ」

「読めましたか」

「読めましたー」

 

ほら、これが読めるならこの国の言葉が上達している証拠じゃないですか。…と言うには、少し簡単すぎた。愛しい陛下のお名前だ、それこそギュンターが繰り返し繰り返し教えているだろうし。

俺はまた少し悩み、先ほどの単語の隣にまた単語を書き足した。

 

  “ ユーリ 陛下 ”

 

それを見て、またユーリは笑った。これも簡単すぎたらしい。

 

「その単語、いつもセットなんだよなー。ギュンターってば、これがあなたのお名前ですって言いながら、いつも“ユーリ陛下”って書くんだもん。おれ、“ユーリ陛下”って文字全体で“ユーリ”って読むのかと勘違いまでしちゃってさ」

 

思わぬ逸話に苦笑する。確かに王佐ならやりかねない。つい先ほども、擦れ違いになった陛下を捜し求めて叫んでいたっけ。

 

『陛下! 陛下ぁー! 私の陛下あああぁ』

 

ああそうだ。そう叫んでいた。

そんなわけで、次に書く単語が決まった。正確には単語ではないが、簡単な文法テストも兼ねているということで。

愛しい彼の名前の横へ、新たに書き加える。

 

  “ 俺の  ユーリ 陛下 ”

 

ユーリは嬉しそうに、ぽんと手を叩いた。

 

「それも読めるよ。“俺の”でしょ。所有格!」

 

正解です。そしてその“俺”はこの俺です。

しかし残念ながら、そんな心の訴えにユーリが気付く様子はない。

 

「助詞って意外と難しいんだよなー。普段何気なく使ってるから、いざ外国語になると判りにくくて」

 

じゃあ判りやすく直接伝えてみようか。

俺はまた次の単語を付け加えた。もちろん、彼に読める平易な単語を選んで。

 

  “ 俺の 大好きな ユーリ 陛下 ”

 

「あ、その末尾は修飾語だよな、係り結びとか面倒なやつ。えっと…“大好きな”……」

 

そこまで言って、ようやく気付いたように大きな黒い瞳が俺を見上げてきた。俺がにっこりと微笑むと、彼の頬がうっすらと染まる。その初々しさと言ったらない。愛しさにかまけて、薄く開いたままの唇を奪ってしまおうかと身を乗り出した時だった。

 

「あっ! そうだっ」

 

何かを思いついたように、彼は不意に顔を下げてしまった。下ろした視線の先には、俺が修飾語を書いたばかりの紙が。

 

「…どうしました?」

「ん、うーん、ちょっと待って」

 

ペンを持ち、なにやら考え事をしているようだ。

せっかくの甘い雰囲気をこうして崩してしまうことは、ユーリにはよくあることで。俺も一つ苦笑して、気持ちを入れ替える。

口元に手を当ててしばらく唸った後、ユーリは慎重な動作で俺の文に書き足し始めた。幼子のようにたどたどしい文字が、一つ一つ追加されていって。

…書き終えたユーリが、ゆっくりと俺を見上げた。文法合ってるかな、とでも聞きたそうな顔で。

 

  “ 俺の ことが 大好きな ユーリ 陛下 ”

 

「…習いたての言語でこれだけ応用が効くのなら、もう充分ですよ」

 

文が通じている証明にとユーリの額へキスを贈ると、彼は100点満点のご褒美をもらった子供のように笑ったのだった。